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Site icon imageちちもブログ

日々の徒然

命を救う1ドルのパンと肥満を加速する3ドルのパンの価値。

インターネットや物流の拡大によって、ビジネスにおける国境というものがなくなってきている。伴って、国ごとの経済力を推し量る指標にもアップデートがかけられている。GDPからGNIへのアップデートである。

GDP: 国内総生産 Gross Domestic Product = 日本国内という地理的な区切りのなかでの生産額を表す。例えば、インド籍の企業が大阪の工場で生産した機械の売上が入る。

GNI:国民総所得 Gross National Income = 日本籍を有する組織の世界中での生産額を表す。例えば、日本籍の企業がベネズエラの工場で生産した機械の売上が入る。

特に、全世界を商圏とするインターネット企業が経済を大きく動かしている昨今においては、GNIを用いなければ、どこの国が新しいビジネス/価値を創出しているかがわかりにくくなる状況であることは間違いない。日本で一番売上を上げているSNSと動画サービスは米国企業(Facebook, Youtube)で、日本で一番売上を上げているPCメーカーは中国企業(レノボ)だったりする。GDPの定義に従えば、海外子会社の売上はその親会社が属する国には入らない。

ただ、GDPがGNIになろうが、GNIが更に新しい概念になろうが、つきまとう疑問がある。それは「生産高や売上といった金銭価値が、商品の必要性を捉えきれているだろうか」という疑問である。

資本主義において、売上というのは、企業が提供している商材に対して払われた対価であり、その額が大きければ大きいほど、価値が高いものとされている。言い換えれば、世の中を楽しく便利に快適にした分に対しての評価とも言えると解釈されてきた。だがこれは、資本主義の盲点だとも思っている。

卑近な例で考えてみる。飢餓状態の貧困国の少年にパンを差し出すのと、肥満で病気状態の富裕層の中年の口にパンを押し込むのでは、どちらが価値が高いと言えるだろうか。貧困国のパンは1ドル、富裕層のパンは3ドルだとすると、資本主義は、後者の方に価値があると考える。もちろん、3ドルの価値を生み出すまでの生産プロセスに関わった人の数や必要な材料は、1ドルのパンを作り出すそれに比べて多いだろう。そういった意味では3ドルの方により大きな経済効果があるというのは理解できる。

しかし、腑に落ちない。

どうも資本主義は、そのものの必要性を尺度の外に押しやっているフシがある。不必要でも高価なもの、必要だけど安価なもの、前者のほうが経済的な価値が高い。余力のある人に、無駄な消費をさせるほうが、金銭を多く獲得できる可能性が高い。

この結果が、(平たく言えば国ごとの)格差拡大につながっている。必要なところに必要な富が行き渡らず、不必要なところに過剰な富が集中して還流している。余力が余力を生み出している。(正確に言えば、余力を何らかの形で金銭的価値に変換しなければ余力は拡大していかないという点においては、余力=即勝利というわけでもないのであるが、そもそも余力がなれば挑戦すらできない。)

自分がパン屋だったときに、1ドルでしかパンが売れない地域、3ドルで売れる地域、その必要性に関わらず、どちらでビジネスをしたほうが得かを考えてみると、富の偏りがどのようにして生まれるのかが見えてくるはずだ。

資本主義においては、金(資本→余力)がすべてをねじ伏せる。ねじ伏せられた者は、ねじ伏せられ続ける。そしてその初期設定が逆転不可能なほどにハードに設定されてしまっているのが、現代の格差社会なのではないかと思ったのである。