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Site icon imageちちもブログ

日々の徒然

ファッションにこだわりを持ちたくなったのはなぜか。

突然、自分の着る服に対して意識が働くようになった。きっかけは、コロナ明けに久しぶりに、そこそこ良いレストランに行くことになった際に、そのシチュエーションにふさわしい手持ちの服が無く(これまで意識すらしてこなかったので)、悪戦苦闘した挙げ句、清潔感はあるがそれ以上でも以下でもない格好にしかならなかったときの悔しさからくるものだったと思う。

長年やってきたように全身ユニクロでコスパを重視することに飽きた、もしくはそれなりの歳になり、ファストファッションの粗さをカバーできるほどの若さがなくなり、醜さがにじみ出てきたとも言える。が、どちらかといえば、自分の着る服を通じて、他者に対してメッセージを送りたいのだと思った。ユニクロで全身を固めていても、その人のアイデンティティは出にくい。ユニクロがあらゆる人に愛されてしまっているのでメッセージを発しにくいというのもある。ユニクロから「コスパを重視して、無駄を排した人間ですよ」というメッセージを受け取る人もいるだろう。

では、どういうメッセージを発したいのか。それはシチュエーションによって変わるが、基本的には「自分は善き市民として隣人と手を取り合う準備ができています」というメッセージだ。人と協調する意識がある人とは助け合う姿勢があるという心構え、他者からどう見られているかを考えることができますという客観性、かといって自己主張を激しくしたいわけではない控えめさ、あたりだろうか。他者からどう見られたいかを表現し、その結果どう振る舞いそうかかすら感じ取れてしまうのがファッションであり服である。

例えば、身なりがいやらしくもなく、かといってチープでもない、心地良さを表現している中年夫婦などを見ると、落ち着く気持ちになる。何かあったときに、分かりあってくれそうだなと思える。ユニクロやファストファッションにはそれ(醸し出すメッセージ)がない。ますます価値観やら生き方やらが多様化し、様々な背景を元に階層の分断化が進行する現代において、バーバルコミュニケーションを開始する前のぱっと見の印象で、この人はやばい?やばくない?が分からないと、リスク回避せざるを得ないので、無で接することが基本動作となってしまう。そういった振る舞いを作動させている側で居続けることが辛くなってきたというのもある。こちらも親切にする気はあるし、親切にする心の余裕も持ちたいと思っているので、どうかお互い親切にしあいましょうという合図を送りたい。

全身ユニクロ時代は、誰であろうとどこであろうと、自分は自分で、中身で勝負じゃん?と考えていたが、それがなんだか子供っぽく感じられてきて、それがもう通用しない年齢だったり、歳を取るにつれて変化した見た目だったり、というのが気になり始めて、TPOに合わせた格好をできるということが、相手を不快にさせず、相手に警戒されず、相手に初見で「大丈夫な人」「真っ当なコミュニケーションを開始しても良い人」というメッセージを送ることができるという点で、ちゃんとした服を買おう、と決心した。

パッと見て、品質が良いものを着たいというので、生まれて初めてハイブランドと呼ばれる服を見てみたけれど、その店にいる人、街で人のファッションを気にして見るようになってわかってきたのは、全体のバランス、コーディネートこそが重要だということ。まあ、それってファッションというより、自分を俯瞰して見ている人なのか判定という部分が大きいように思う。ガチガチのハイブランド固めで、いかにも成金チンピラっぽい格好をしたいわけではないし、古着屋を回っておしゃれな着回しやレア物を身に着けたいわけでもない。いやらしくなく、似合っていて、品が良い=真っ当なコミュニケーションを開始して良いくらいに、自分がどう見られているかを意識できる人という、どのくらい他者の視点に立てる人間なのかというところが表現できていれば良い。高いんだぞー金持ってるんだぞーと言いたいわけでも、おしゃれ好きなんだぞーと言いたいわけでもない。

街の中ですれ違う人に唯一、自分がどういった人間なのかを、表明することができる手段がファッションなのである。社会の中で同じ物語を共有することが難しくなり、他者の価値観を推し量ることが難しくなった時代だからこそ、その手がかりとなる衣服の重要性は増すと感じた。