自分の世界や社会に対しての認識はどのように形成されているだろうか?
今まで得てきた情報をもとに、判断軸を形成し、新たな情報を処理し、判断軸を調整し、の連続によって世界への認識や価値観が形成されるとしたとき、その情報源がどんなものかによって価値観自体も大きく影響を受ける。
あらゆる情報は、発信者が存在し、発信者のバイアスがかかっていない情報というものは皆無であり、あらゆる情報の受け手はその受け手のバイアスから逃れることができないとしたときに、それらの合成によって形成された価値観とは一体どれだけの価値があるのだろうか。
普段私達は、その情報のほとんどを何らかのメディアを通じて受け取る。特に、物理的に離れた場所に関する情報に関しては、ほぼすべてをメディアを通じた情報に頼らざるを得ない。離れた場所、社会、世間と呼ばれるものに対しての認識は、メディアを通じた情報のみを手がかりに形成されている。
更に、情報の受け手である私達は、自身のそれまで得られた情報を元に形成されたバイアスフィルターを通じて、新たな情報を処理する。情報取得の際に自身のバイアスを取り払うことができないのは、おそらく生存本能によるものである。事前にある程度の判断軸形成を行っておき、それに準じて瞬時に状況を判断する能力がなければ、危機的状況を生き残ることができないためである。
実体験空間に関する情報取得とそれによって得られた価値観、メディアを通じて得られた情報をもとに形成された価値観、この2つがあるように思う。今の日本人にとって、彼の国の戦争は今すぐにでも自分に殴りかかってくるような実効力を持った現実ではない。単なる情報だ。しかし、今日乗った電車の中で席を譲ったにも関わらずお礼の一言もなかったという出来事は現実である。メディアを通じてのみ得られる広大な離れた世界に関する偏った情報と、半径5mの身に起きた現実を私がどう捉えるかという、極端に偏った2つのインプットによって形成される、ピントが大きく隔たった価値観。
価値観はその形成過程において、エコーチェンバーするという癖を持ちながら、日々強化されていく。有り体に言ってしまえば、情報の濁流の中から都合の良いもののみを選び取り、目の前の事実からも都合の良い側面ばかりを観測してしまう。自分の認識する世界は、バイアスの重なりによって構築されたに過ぎない、あまりに一部の歪められた主観によるものだ。
価値観に正義も悪もない。そこにあるのは好きか嫌いかだけである。確かな価値観というものは存在しない。人々が見た目と金にこだわるのは、それが価値観をねじ伏せる強さを持っているからである。この2つが現実世界で持つ強さはむごすぎる。
この前提において、わざわざ価値観を設定する必要があるのか?狭い現実世界に場当たり的に対応する行き方でも豊かな人生だってある。
きっとそこにそんなに大した意味はないだろう。せいぜい周りの信頼しあえる人間とうまくやっていくくらいの役にしか立たない。
だけど、どうしようもなく、世の中をできるだけ正確に理解し、自分の価値観に塗り重ねたいと思ってしまうのは、好奇心によるものなのだろうか。きっとそうかもしれない。持論を形成し、ものにして、少しでも世界の捉え方を多角的にすることで、楽しく生きるだけ。ただ生きているだけではつまらないから、ちょっとだけ広い世界を知りたいだけ。それだけ。自己を疑う姿勢を持ち、それによって自分のバイアスを壊し、新たな局所最適解を選び続ける人生。
徐々に歳を取るにつれ、価値観や社会や世界に対しての認識が異なっていくのを感じる。それが良いか悪いか、浅いか深いか、あまりわからなくなってきている。ただ、それまでの価値観の厚みを活かした考え方でアップデートしていきたいという想いはある。今後の人生において、価値観の厚みを増すことを望む。