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Site icon imageちちもブログ

日々の徒然

「教育と愛国」当事者である子供が置き去りにされていた。

事実とは捻じ曲げ可能なものである。たとえ、それが現在進行系で起きているものであっても。

ドキュメンタリー映画「教育と愛国」を観た。教育を通じて、子供が愛国心をどう養うのか、そもそも愛国心とは?という内容を期待して映画館に足を運んだが、内容は、事前の期待とは全く違うものだった。

当事者である子供のことは脇において、わがままな子供(利己的な大人)が利害関係を巡って教科書の細部をいじくり回している様子を追った、なんとも情けない内容だった。

当然、教育に携わる大人は教科書に書かれている内容を教えるわけなので、その記述がどういったものなのか、その背景にある理屈というものに敏感になるのはわかる。それぞれの信条もある。

しかし、それは子供も同じだろうか?正直、この映画を通じて一貫して議論されていた細かい用語の記述や、政府がそれを事実として認めているいないなんていうものは、どうでも良いとしか思えなかった。

どうせ、本当のことは分からない。すべてはポジショントークでしか無いからだ。本当のことを知ることは不可能である前提で、自分が納得する事実を見つけたければ、自ら汗をかくしか無い。

そういった真実に対する態度とは別に、子供はそもそもそんな教科書にかかれていた細かい単語についてなんて覚えていない。

自身で振り返ってみてどうだろうか?社会の教科書に”慰安婦”についてどういった記述があったか覚えているだろうか?その存在自体があったのかすら思い出せないのではなかろうか。

教科書の記述より、子供が実際に気にするのは、教師の喋り方や表情、ちょっとしたエピソードに表れる態度や意見なのではないだろうか。そこにフォーカスせずに何が教育だろうか。

映画全体を通して、ぶっちゃけ子供からしたらどうでもいい内容、争点に大人のエネルギーと金が多大に使われており、心の底から落胆した。日本の教育機構は子供のためにはない。

当事者である子供は当たり前のように置き去りで「教育制度というものを狡猾に利用して、いかに自分の利益を最大化できるか」にしか頭が行ってない、自己利益に鼻息が荒い下品な大人達ばかりで辟易した。

これは右とか左とかではない。どっちもどっちだ。げんなりした。

もちろん、史実や事実を捻じ曲げるのは論外なので、それに抗う姿は必要なのだが、しかし、どんなに頑張ったとしても、大きな力で押し込められるのが民主主義であり、今の日本である。

政治的圧力、権力者の思い込み、居直り、自己欺瞞。呆れるほど人間の欲望に忠実だった。

そんな自己利益にしか興味がない人達相手に、なぜそこまでこだわって同じ土俵で戦おうとするのだろうか?結局のところ、それが理解できなかった。シンプルに私塾でいいじゃんと思った。

戦っている人たちは、それ自体に意味を見出していないだろうか?目の前の子供に教えることを目的としたときに、大きな権力に勇ましく立ち向かうことが最適解なのだろうか。

一方で、今の子供達は、一昔前よりは情報取得という点においては良い状態だと思う。

インターネット、特にスマホを持つことによって、教科書や教師や親といった偏った情報だけがインプットではなくなるためである。

大人の手垢にまみれ、利権によって捻じ曲げられて何が何だか分からない状態の情報が書かれている教科書を鵜呑みにするのではなく、実際に戦争や災害に遭遇したご本人が、その人の見たこと、考えたこと、思ったことを発信している情報を取得できる環境を活用するべきだと思う。ただ、どこまで行ってもそれも疑ってかかるべきだとは思う。(フェイクニュース含めて)

所詮、大人は自分の思い込みを脱することはできない。であれば、多数の意見を取り込むことが、偏りへの最大のリスクヘッジになるはずだ。

右も左もいろんな意見を見れる状態であることはひとまず良いのは間違いない。

そういった環境において重要なのは、子供が何を選び取るかは子供の自由である一方で、何を捨てているかを意識させることだと思う。

何かを選び取るということは何かを捨てていることであることを認識できている人は大人でもほとんどいないだろう。

全体の中でどこに自分を偏らせているかを意識できていれば、他者を受け入れることもできる。自分を省みることもできる。

考えることを止めないこと、変化を前提として自分を、他者を固定しないこと。柔軟さに重きを置くこと。ここから教えるべきだろう。

そして、正しい(正しくない)と絶対的に言えるものはこの世には存在しないことを知ることだ。どんな状況であっても正しいと言えるものは存在するだろうか?そんなものはない。

教科書に書かれていること、教師が言っていること、熱弁していること、親にキツく言いつけられたこと、この全てが正しくも正しくなくもない。自分がどう考えるかでしかない。

学校教育では枠の中で考えることを良しとする暗黙のルールが存在している。特にその枠を規定しているのが教科書であり、それを伝達する教師であり、教師という立場自体であったりもする。

特に非力な子供にとって、最も身近な親や教師という存在が良しとするものの範囲を探ることで、居心地の良い場所を確保することが重要で、そのための能力を家庭内・義務教育の過程で学んでいく。

結果、空気を読む能力に長けた人間が製造されるのであり、空気というのは上位者が良しとする思想や思考の範囲と同義である。

どれだけ、考えることは自由で、何を考えても良いとはいえ、構造上、子供が上位者である大人の意に介さない思想や思考をゼロベースでぶち上げることを全く許容していないと思う。

先程の記事では、そういったこなれてしまった思考の枠外に出るための場所を用意することで、自由に考える練習をさせようとしている。

教育改革(デジタル、STEMなど)の方法論では解決できない、国民的な悪癖というものを今からでも意識的に振り払わなければ、新しい方向性は出てこないのではなかろうか。

そのために我々ができることはなんだろうか。少なくとも、教科書の記述を巡って醜い利権争いをするという枠内の行動に邁進することではないとは思う。