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Site icon imageちちもブログ

日々の徒然

判断しない。

経験値が積み重なっていくと、目の前の出来事に対して判断を下せるようになる。判断を下すことで、その出来事に対して、今まで獲得してきたどの対処法を当てはめれば最も効率よく"処理”できるかが明確になる。それは脳のメモリを解放するための方法で、歳を取って、脳のメモリが減っていく過程で、より早く判断をしなければ、と無意識に、自分の中の判断基準に当て込んでいこうとしてしまう。

判断しない、ということは、出来事に対して、どのように対処するかを決めずに留め置くことである。脳に思考が滞留する時間が長くなる分、脳のメモリが食い尽くされ、生活が時間が圧迫されていく。判断をくださないと、常に無限の選択肢が存在し、無限の未来を確定させることができなくて、それが不安や焦燥感につながっていく。

ところが、最近、判断を先送りにしてみようと思って立ち止まった経験を機会に気付いたことがある。それは、判断しないことで新しい判断基準が手に入ること、判断を遅らせることで直前まで純粋な判断材料が手に入ること。そして、判断しなくても、大したことは起きないということ。

判断できない、しない、これは一見すると、未熟な態度に思えるかもしれない。判断を保留することの成熟について、一般的には軽視されているように感じる。材料が揃わない中で判断するべきこともあるだろう。一方で、倫理や価値観、そういった、判断を急がない、急ぐべきでないものもある。

判断することに慣れ、自分の持ち合わせの型にはめる心地よさと安心感の中に籠るのは、世界の嵐に立ち向かうことが怖かったからなんだと思う。それは怠惰の代償だったとも感じている。

考え続け、変わり続ける覚悟があれば、嵐の中からどんな物が飛んでこようが、絶対に弾き返すことができるのである。この歳になって、そう信じられる気がしたことに喜びを感じる。