[2020/02/07 追記]
- 風呂に入りながらふと考えたので今更だけど追記。
- 自分が悪い、から、お前らが悪い、への目覚め。
- 自分が悪いんだ、自分の運が悪い、自分が病気で生まれてきてしまったのが悪いんだ、という自責の念を持っていた。母さんはか弱く、優しい。世間はこういった僕らに対して厳しい。でも頑張っていく。
- でもそれは違った。自分は、か弱く守るべき存在だった母親によって作り出されるべくして作りだされた産物だった。自分は悪くない。お前達が悪いんだ。社会が悪い。俺は悪くない。
- こんなところで笑ってはいけない、から、笑っていいんだ、の開放。
- アーサーは病気で笑いが出ていたというが本当だろうか。薬を飲んで抑えていたが、あれは、脳の病気というものに加えて、タブーを犯すことのスリルを楽しむ、本当の欲求と戦っていたのではないだろうか。「ここでこんなことしたら笑われてしまう、恥ずかしい、台無しになる」と思った瞬間、それを「だめだだめだ」と思うほどに加速する無意識の欲求。理性では笑いたくない、本能が笑っている。
- ところが、目覚め、つまり、世間体=世間に対して気を使うことを止めた瞬間に、それを抑え込む理由がなくなる。社会全体の中で自分を位置づけて調和しようと頑張っていたアーサーが、絶対的な個として自我を獲得した瞬間に笑いが本物になる。
- 個人的な転機と、社会の怒りが相まって、業火となる。
10月4日公開の「ジョーカー」を早速観た。感想を書く。
アーサーの笑いの持つ意味とは。
のちのジョーカー、主人公のアーサーフレックは突然笑いだしてしまう発作を持っていることが、序盤で明らかになる。
※ 実際にてんかん性笑い発作という脳の病変は存在する。
イベントなどに派遣されるピエロとして生計を立てるアーサーは、その奇妙な発作のせいで周りから気味悪がられることで形成されてきたパーソナリティによって、孤立した生活を送っている。
広がる格差社会の底辺を這いずり回りながら、コメディアンになることを夢見て、病弱な母親の面倒を見ている。
その彼の笑いは、通常の笑いとは異なり、いくつかの意味を持つ。
- 脳の障害のせいでツボがずれている、健常者の感情がわからない笑い。コメディアンにとっては致命的。
- 心的なストレス/緊張がかかるシーンで防衛本能的に発作が出て、本当に苦しそうに身体反応をこらえる笑い。
- 人生は喜劇であると振り切ってから出てくる、己の真の欲求である残虐性を喜ぶ笑い。
劇中ではこの3種類の笑いがグラデーションを交えながら徐々に、彼の感情と人生の捉え方の変化とともに移り変わっていく様が描かれている。
笑いが変化する契機と社会との足並み。
ゴッサムシティの治安は、社会格差が大きくなるに従って悪くなっていく。
「一般市民はピエロの仮面でもかぶらない限り犯罪を犯せない(その臆病さを揶揄)」という権力者の発言で社会の怒りに火がつく。(このあたり、名作は時機に恵まれるというか、香港のデモの過激化と重なる部分もあって、妙に生々しかった。)
とき同じくして、アーサーの身の回りにも様々な出来事が起き、彼の心情にも変化が起きる。
奇妙な障害のせいで孤立し、社会から虐げられる日常を、すんでのところで踏ん張り、唯一の理解者である病弱な母親を必死に看病している。
仕事は難癖をつけられ首にされる。コメディアンとしてチャンスをもらうも、笑いのツボがわからず、発作も邪魔をし、全く上手くいかない。それでも耐えて生活を守り抜こうとする。
そんな中、あるきっかけで、母親と自分にまつわるとある事実を知ってしまう。
その事実を持ってして今の自分を眺めると、虐げられ、不幸だと感じながらも、抗って守り抜こうとしていた生活/価値観が途端にどうでもよくなる。
彼の心の中の最後の留め金が外れてしまう。自分が守り抜こうとしていたものは最初から全て喜劇だったんだと悟る。バカバカしい。俺は悪くない、なるべくしてこうなった。という考えに至る。
そしてアーサーは心の中から湧き上がる己の残虐性を徐々に噛み締め、個人的なやり場のない怒りと絶望、社会の怒りの歯車が重なって、全てを飲み込む業火となっていく。
気付けば、笑いの発作が出ていない。「なんで俺が笑っているかは、君にはわからないさ。」この笑いはどこから来ているのか。
このように、世紀のヒールであるジョーカーが、観客に理解可能な文脈で形成されていくのを、良しとするか否かで賛否が分かれる映画だと思った。
「ジョーカーという1人の人間に起きた出来事を解釈し、シンパシーを感じ、身近に感じた。一見狂った行動にも情状酌量の余地があり、人間性を見出せた。」
とするか、
「ジョーカーは狂っていてなんぼ。常人が理解可能な形で彼の所業を語るなんて、神への冒涜に近いものがある。理解なんてさせて欲しくなかった。」
とするかで評価が分かれる。
終わった後にも噛み締め甲斐のあるじっくりと面白い映画だった。これも一つの解釈。