言うまでもなく格差社会である。問題はそれが固定されていることだ。這い上がれない。富の再分配は破綻し、勝者が勝者であり続けるための構造が強化されている。経済学者ピケティは、資本家のほうが、労働者よりも、効率よく富を拡大できるので、デフォルトの条件では、格差が広がると論じた。
資本家は労働者がいて初めて成り立つ。この不等式を搾取と呼ぶならば、資本家は資本家である限り、労働者から搾取し続け、勝ち続けることができる。資本がなければ資本家にはなれない。このことを分かってか、資本家は労働者が余力を持つことがないように絶妙に困窮させながら搾取を続ける。しかし、こういう人もいるだろう。「育ちが貧しく、底辺労働者だったが、ハングリー精神で頑張ってのし上がり、今では成功して、資本家として名乗りを上げている。お前たちは努力が足りない。」と。
努力すれば報われるという論理は、努力する才能に恵まれ、環境に恵まれ、たまたま運良く努力が報われた存在であるから言えるのである。大半は、努力も報われず、そもそも努力することすら叶わない状況なのを分かっているのだろうか。そんな例外にスポットライトを当てて、よくもまあ、頑張れない人たちがどうだとかほざき、世の中に公平にチャンスが存在しているかのような顔をできるものだ。
努力というのも才能であり、与えられた環境であり、それらも資本と呼ぶのであれば、努力資本と呼ばれる富に恵まれた帰結でしかない。本人がどう言おうが、成功した時点で何かしらに恵まれて生まれてきているんだろと言うことだ。問題は、どうにもならない、現在進行系で搾取されている側の貧困をどうするかなのに、論点をすり替えてしまっていることに気付けないことが多い。たまたま恵まれた自分を、「運が良かった」で片付けたくないくらいにプライドが高く、自己正当化することで自尊心を保っているのは、未熟さの現れだろう。
内戦が耐えない国に生まれた人に比べたら、日本に生まれた時点でかなり良い方だという論もあるかも知れないが、そういう比較を言っているのではない。主観の問題だ。今自分が辛い、それが問題なのである。資本主義社会で勝ちやすい人の能力は時代によって変わっているが、日本という国であっても、たまたまその能力を備え持つという運に恵まれるか、勝ちやすい資本を蓄えた環境に生まれるかのどちらかでしか、正常な生活ができないことが問題なのである。
努力が報われるとは限らない、余力を持てないように労働者は搾取され続ける、と書いてきたが、これが続くとどうなるだろうか。
まず、努力が報われないシーンが続けば、努力は無駄だ、という諦観が現れる。ありていにいえば、頑張れなくなる。やる気が無くなる。それが個人から社会へと波及する。社会全体が頑張っても無駄だというムードに包まれ、社会全体で学習性無力感にさいなまれる。努力しても無駄なんだからせいぜい今を楽しもう、蓄積しても無駄なんだから努力はやめて、蓄積はやめて、使ってしまおう。良いじゃないか。死ねば一緒なんだから。自然とこうなる。
それだけならまだしも、その上で資本家から搾取され続けたらどうだろうか。
本来的には、資本家は労働者がいなければ困る。搾取し過ぎて搾取の対象がいなくなってしまっては困るのだが、歴史的に見て、搾取の対象がいなくなることはない。そうはなっていない。資本家にとって搾取という行動が因果応報の構造になっていない。
正当なルール(資本家のルール・社会のルール)に則っていては、資本家の思うつぼ、結果は変わらずである。であれば、ルールを逸脱し、破壊的な手段でその格差を是正しにくるのは自然な流れだろう。それが、復讐であり、テロもその発露形態の一つだと考えている。
アテンション・エコノミーもその一つではないだろうか。経済が停滞し、格差は固定され、自分の力では何も動かせない。毎日がつまらない。誰かが何かを変えてくれることを望んでいる。異常な言動で耳目を集め、人に世の中の転覆を期待させた人が、資本家の論理に従うことなく富を得ることができる。努力による積み上げではなく、度胸や思いつき、無謀さといった努力資本が必要ない要素で、勝ち上がれる仕組みが支持されているのだと思う。
2019年、映画「ジョーカー」で発せられた過激なメッセージが話題となったが、社会的なムードが後押しした部分が大きいと考えている。
努力しても無駄、運が良いかが資本主義においては重要、搾取は止まらない、暴力によって復讐するのみ…なかなか暗澹たる結論だ。近年起きた世の中で起きる事件や事案を見てみると、復讐の色が濃く出ていることに気付く。暴力というシンプルな手段のみではなく、制度の破壊や権力の転覆が目的であったりすることも特徴的だ。ハックと呼ばれ、もてはやされている。
政治を破壊し、宗教を破壊し、銀行システムを破壊し、株式を破壊し、スポーツの祭典を破壊し。我々にはそんな道しか残されていないのだろうか。搾取され続けても破壊に訴えずに平和主義的に生きていく道は無いのだろうか。
一つは、距離を置くことだ。
以前、他の稿で書いたが、資本主義の搾取のルールの影響を受けにくい生活基盤を作り、搾取される源自体を人生から減らしていくという生き方はあると思う。資本家による搾取で生活が困窮しつつも搾取の構造から抜けられない原因として、衣食住が握られているから、というのは大きいだろう。なのでまず、この衣食住を自給してしまい、搾取される対象を減らし、搾取されない、逃げ込める領域を作っていくというのは一つの方法としてありえると思う。
搾取する側を羨ましく思わず、されるままを良しとしない、そういった解脱した生き方が、一部で注目されているのはこういった背景もあるのかも知れない。しかし、それでは世界の構造は変わらない。「距離を置く」という解決方法は、自分さえ良ければ、に近いものがある。それは成熟した大人がやることではない気もしている。
もし、あなたが、自分以外の誰かをも救おうとするならば、世界の構造を変える必要がある。
個人の小さな声でも集めれば大きくなると考えることもできる。そのためにはまずは自分から声をあげなければならない。もしくは、構造を変えられるように権力を手に入れようと考えることもできる。上記のように、資本主義から距離を置いて逃げることもできる。
自分のポリシーは自分で決め、納得の行くように生きるしか無い。そして、その生き方は、もがきながら探すしかない。個人(自分)の小さな力だって、誰かを少しだけ救うことはできる。正しい誰かを。
参考リンク
- ピケティ「21世紀の資本論」が指摘したこと-なぜ1%への富の集中が加速するのか- | 研究プログラム | 東京財団政策研究所
- 「学力と階層」解説 - 内田樹の研究室
- 問題映画『ジョーカー』から考える「無敵の人」問題(※ネタバレなし) | アゴラ 言論プラットフォーム
- 箕輪厚介氏に聞く“若者×選挙” 1|日テレNEWS NNN
- 格差と若者の非活動性について - 内田樹の研究室
- すべてを諦めて生きる「N放世代」。韓国の青年たちの過酷な生活に迫る(金 敬哲) | 現代新書 | 講談社(1/2)
- RIETI - 書評:三浦展著『下流社会 新たな階層集団の出現』
- グローバリストを信じるな - 内田樹の研究室
