人は「比べる」という能力を獲得したことで、終わるあてもない競争を開始してしまった。
「比べる」が曖昧だった頃はもう少しマシだったのかもしれない。ところが資本主義の登場で比べることが加速した。資本主義はあらゆるものを数値化し、比較可能な状態にし、競争させることで成長した。便利だとか美しいだとかをより良いものとして喧伝した。これを持っていれば持ってない状態に比べて幸せになれると。人間関係や職業やステータスや生き方など、自分の全てを比較させ、より良い対象を手に入れるために努力させた。これが経済を発展させる大きな原動力になった。
他の誰よりも良い暮らし、良い人生を送りたい。そうやって人生に目標を立て、それを手に入れては「これではない。思ったように幸せになれていない。もっと良いものを求めなければ。」と永遠とより良いものを求めるレースは続いていく。他者と比べ、理想の自分と比べ、他者の目を介在して自分に評価を下し、そこに追いつこうとする力が、人間を変化させてきた。それ自体は悪いことではない。でもそれに囚われすぎて、視野狭窄に陥ることもある。そんなにストイックにならなくても良くないですか?とも思う。
自ら叶えたいと思える自己実現、承認、それらでさえ、何かと比較して、それより勝っているからという理由で嬉しいと思う。美しい配偶者、賢い配偶者を手に入れた自分、自分らしさを実現した生活環境、世の中に価値のある仕事をできている自分、これら全て、それ自体の価値ではなく、それができていない人に勝っているからという理由で、悦に入る部分はないだろうか。
もちろん、人に勝ち続けることが人生の目的であり、最高に楽しいことなんだという人もいると思う。そういう人はそのままでいいと思う。ただ、必要以上に「XXを手に入れたら幸せになれる」という思想に囚われていないだろうかとも思うのである。人生の100m先に線を引き、そこまでは息を止めて全力で走って、ゴールかと思ったらまた100m先に線を引き、を永遠と繰り返し、苦しい時間のほうが長い人生だ。
あらゆることを価値換算して比べてしまう。車に乗っていて、隣に軽自動車が止まった時、子供が習い事をうまくこなせた時、妻がきれいになった時、旦那が優しかった時、友達が引っ越した時、あらゆることを資本主義の価値軸に換算して、比較して、資本主義の中でどうやって勝っていくかということを考えている。資本主義という価値観との付き合い方を人生の中で定めないと、あらゆる無駄、あらゆる今、あらゆる楽しみが滑り落ちていく。友達と酒を酌み交わす、本を読む、映画を見る、新しいところに行く、これら全てに資本主義的価値があるのか、という判断軸で切ってしまう。どこに行っても何をやっても心が定まらない。すべてが目的地までの我慢の過程となる。
「比べる」の対義語は「比べない」ではない。
この社会において「比べない」ということがどれだけ困難か。意識すればするほど、比べてしまっている自分に気付く。
でも、別の選択肢があるのではないか。比較から逃れる選択肢。手に入らないものに対しての折り合いの付け方。
この文脈において、「比べる」の対義語は「諦める」なのではないかと思う。足るを知るといってもいいだろう。
そこまでする必要があるのか?このままで十分なのではないか。諦めと停滞は紙一重だが、大抵のことは諦めても、問題ないくらいには人生うまくできている。どうしても諦められないものについては追い求めればいい。
そもそも、人生でやらなければいけないことなんて無い。我々はそんなものを持って生まれてきてはいない。要は、自分を自分で許せるかなのである。ただ生きるだけの自分を許せるかである。
そんなことを許したら、ただ生きているだけの何の差もない人間になる。その他の衆愚と同じになってしまうと思うかも知れない。でも、だ。あなたが少し頑張ったところで、世の中は何も変わらない。成功しても失敗しても、人間、食って寝て、排泄して、セックスして死ぬだけの存在だ。資本主義で成功したところで、それは人間自身の価値とは何も関係がない。金持ちのクソ野郎は掃いて捨てるほどいるし、貧しい聖人も同じだけいる。資本主義での成功と、人間の価値は切り離して考える必要がある。
自分だけの特別な人生を歩む必要があるのは、いや、歩んでもらう必要があるのは、それがビジネスになるからだ。みんながみんな「このままでいいや、別に人と違わなくてもいいし、何かに秀でなくても自分の価値は自分で決める」と言い出してしまったら、何も求めないし、何も買わないし、経済は、社会は、発展しない。だから困るのは、ビジネスをする、儲ける側の人間なんだ。
羨ましいと思わせることが、資本主義の原動力であって、それは人と比べることで発生する。羨ましいの語源は心(うら)が病む(やむ)ことだという。文字通り、心を病ませて、取り憑かせるのである。さいなませるのである。「なぜ自分はこんなこともできないのだ、なぜ自分はこんなに醜いのだ、なぜ自分はこんなに平凡なのか」と、他人と自分とを比べ、蔑み、もっと良くなるために努力をしなければ、と思わせる。
そういう人間は資本主義社会においては利用価値が高いだろう。努力が原動力となり、経済への貢献度も高く、将来的には周りの人を羨ましがらせる存在になる可能性があるという意味でも役に立つ。しかし、それと人間自体の価値とは別だ。人間自体の価値はどこまで行っても、全員等しく同じ価値があると言える。いや、全員等しく価値がないともいえる。
そんな中で、なにもわざわざ、吹き込まれた理想像を追い求めて、優等生を演じなくてもいい。自分の価値はなんだろう?なんて考える必要もない。もっとお金を稼がなきゃ、もっといい暮らしをしなきゃ、もっと自分のクリエイティビティを引き出さなきゃ、もっと人生を楽しまなきゃという具合に。よく考えれば、誰もそんなことは頼んでいない。頼まれていないのである。
人生、楽しまなきゃというのも、資本主義が作り出した幻想だ。もちろん、そこに乗っかることは、時にWin-Winであることはあると思うのだが、楽しまなければダメな理由はない。楽しんだほうが、あなたにとっても、資本主義にとってもいいよね、というだけの話である。そもそも、楽しまなきゃ損という、損ってなんだろう。我々は損得勘定するために生まれてきたんじゃない。ただ死ぬまで生きるために生まれてきただけだ。
例えばこの瞬間にも、無惨にも何にも満足しないまま死んでいく人、生命が終わる瞬間はあるわけで、そういった人生と、もがいてもがいて中途半端な快楽を手に入れた人生はなにが違うのか。
走る過程でより気持ち良くなって、それが何だというのか。死ぬまでに快楽を最大限引き出して、気持ち良くて、それがなんなのか。
もちろん資本主義で成功したら気持ちがいい。そういう設計になっているからだ。でも、そこに囚われすぎなくてもいい。もともとがゼロなんだから、成功せずとも、手元にある楽しみを見出して、資本主義の言う「成功した人生」にはならなくとも、そこそこに楽しいままに死ねればそれでもなにも間違っていない。正解も間違いもない。
繰り返すが、人間が生まれ持って果たさなければいけない使命なんて無い。そんなものは、暇つぶしのために資本主義が作り上げた都合のよいスローガンだ。
とはいえ、こういった考え方は無気力を生む。何をしても虚しく思える。何かを成し遂げたところで幸せになるわけではないし、何もしなくても別に良いとなれば、何をしたら良いのかが分からなくなる。人間は、羨ましさに囚われたり、諦めたりしているうちに死ぬ。理想のセルフイメージを形成し、確かめ、検証しているうちに死ぬ。幸せに正解はない。正解にこだわって、今ここにあるものを楽しめないのはもったいない。我々の人生は、他人の人生と自分の人生を比べているうちに終わる。でもそうだとしたら、比べることをやめて手元にあるものを愛でて死にたい。
どう生きたとしても、自分のアンテナに敏感になることだ。これだけは正だと言える。時には充実し、時には虚しくなり、様々な経験を通じて、自分の楽しさの輪郭を、悲しみの輪郭をはっきりさせていく。今、何にだったら夢中になれるのか、気が向くのか、苛立つのかを見出していく。
人生を長く楽しく生きるコツとは、意識的に囚われてみたり、俯瞰して諦めてみたり、を繰り返すことだったりするのかもしれない。「次はこれを目指してみよう」「これを目指してみたけどなんか面白くなくなってきたからやめよう」で良い。誰も責めない。
そうやって、右往左往しているうちに死ぬのがせいぜいという存在が、人間ってもんなんじゃなかろうか。