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Site icon imageちちもブログ

日々の徒然

消費に消費されないためには。

消費は誰かに刷り込まれたもの

あるものが欲しかったときに、なぜそれが欲しくなったのかを考えていくと、その欲しいという気持ちは誰かに意図的に引き起こされたものであることに気付くことができるだろう。

「こういう便益があるから」「買うことでこういう状態になれるから」といったイメージや購買の理由付けは、メディアを通じて誰かの意図したメッセージをいつの間にか刷り込まれた結果だったりする。

これは人間の思考や思想というもののなりたちを考えてみれば当然で、我々は生まれてから現在に至るまでに、様々な考えや思想を吸収し、練り上げ、あたかも自分で考えたものかのように扱っている。

「欲しい」という気持ちも例外ではない。それまでに触れてきた、誰かの思考や思想によって影響され、形成されたものなのである。生まれながらにして、自分固有の感情として「欲しい」を持ち得ない。

そして、人々の「欲しい」を喚起させることに特化してきたのが、広告である。

「これを持っている人はこんな素晴らしい人間だ」

「これを買うことで、他の人とはこんな違う価値観が得られる」

「これを持てば、あなたは賢い生活を送れる」

「せっかく生まれてきたのにこんな素晴らしい気持ちになれるサービスを買わないなんてもったいない」

朝から晩まで、営利企業が、我々に売りつけようとする商品はおびただしく、日に日にその手口は巧妙になってきている。

消費対象の移り変わり

高度経済成長を経て、物質の消費が一巡すると、次はサービスの消費が対等してきた。いわゆるモノからコトへの消費の移り変わりだ。

物質の消費は肉体が成約となって制限をかけてくれる。我々は無限に食べることもできないし、毎日世界中の違う家に泊まるのは疲れる。

一方で、コトの消費というのは肉体的な制限を超えやすいため、消費に拍車がかかっていると思う。

予約の取れない高級レストランには行った(行ける権利がある)という事実が重要であり、アートはそれを買った時点で意味を成す。

これならば、フルコースをすべて食べる必要も(場合によっては一口も食べなくても良いかも知れない)ないし、アートは一度も観る必要がない。

また、このコト消費もいずれ他の類の消費に取って代わられる。

現代において消費は他人との差別化を目的として行われ、ありていに言えば「そんなお金の使い方ができるなんてかっこいい・素敵」と思われるものに消費の対象は移っていく。

揺り戻しもある。

ブランド物を持っていることがかっこいいという時代が終わり、ロレックスよりApple Watchのほうがスマートで賢い消費者というレッテルを貼られやすいため、現代のお金持ちはみんなApple Watchを推しているわけだが、これも「本物の時計の良さがわかる成熟した金持ち」とか「一周回って余裕のある人」という消費者におけるカーストが形成されることで、原点回帰してロレックスが流行りだす可能性がある。

消費は、いまこの消費は周りからどう思われるか、によって優劣が付けられ、自分がどうありたいかを手軽に表現できる手段として資本主義社会のメインストリームに躍り出たのである。

消費はあなたを救ってはくれない

ところが、消費において勘違いしてはいけないのは「消費によって自分が救われることはない」ということである。消費は消費でしかない。

消費は簡単だ。消費は差別しない。だから誰でもできる。金さえあれば。それが救いになるなら金持ちはみんな救われている。でもそうはなっていない。

あるものを消費したからといって、あるものを手に入れたからと言って、それが自分の人生をぱっと明るいものに変えてくれて全て万々歳とは行かないのである。

消費の前も後も、あなたという人間に変化は起きていない。真珠を持っていない豚が、真珠を持っている豚になったところで、豚は豚だ。

そして、消費によって自分がマシになったような気分に浸っていられるのはほんの僅かな時間であるということにも気付くだろう。

どれだけ高級なブランドもので身を包み、毎日高級ホテルに宿泊し、高級料亭で食事をしようとも、自分という消費主体の価値は何も変わっていない。

そのからくりに気付かず、自分の価値が変わっていないことに焦って、更に消費に走る。消費の無限ループ。いつか虚しくなるときがくる。

消費に救いはないのである。

自己表現が消費される時代

現代は、自己表現と消費がほとんど不可分な状態になっている。特に見せたい自分を見せ、見たくない他人を見れてしまうSNSがそれを助長していると感じる。消費による差別化競争がしやすい環境になっている。

自己認識さえ買えてしまう。消費しないというスタンスさえ商品化されている。ミニマリストになりたければ、その方法をnoteで買えばいい。

消費によって、自己認識の乖離を埋めるという側面もあるだろう。消費がストレスのはけ口になっていて、どんだけクソみたいな仕事で、悪どい稼ぎ方をしていても、それを埋め合わせるように消費していけば、自分は価値のある人間であると思うことができる。詐欺まがいのサプリメントでボロ儲けしたら、孤児のための病院に寄付すればいい。それでチャラだ。

生きる意味すらストーリーとして商品化されている。固有の思い出すら思い出作りのための商品として売られている。

この秋、プチセレブな女子会グランピングで特別な思い出を作ろう、なんてそのままだ。

逃げ場はない。

消費に消費されないためには

虚しさはあれど、消費した瞬間の充実は本物だ。それならそれでいいじゃないかとも思う。

消費に踊らされすぎるのも良くないが、消費を忌避して楽しめないのはもったいない。

要は、消費をどれだけ自分のものにできるかだと思う。

我々は消費自体ではなく、消費から引き出すことのできる、教訓や文化的資本にもっと焦点を当てるべきなのではないだろうか。

例えそれが、Instagramのインフルエンサーに踊らされたものであったとしても、良い服を着ることで、自分に自信を持つことができ、知らない誰かに親切にできるなら、それは消費から消費以上の価値を引き出したことになると思う。

より良い価値観、人生観、行動、思想を身につけるための消費に昇華できたとき、初めて消費に消費されなかったと言えるのではないだろうか。

「それ買って、あなた”自身”は何かが変わりましたか?」

消費社会はどこに向かうのか。表面を撫でるような差別化のための消費は終わらないのか。その背景にある資本の獲得というレースは追わらないのか。この世界の中で比較的安住するための処方箋はないのか。

そんなことを、容姿が整った女性経営者という社会の成功のアイコンを引っ張り出してきて、あたかもこれが現代の成功者と言わんばかりに、今風の消費をさせまくって祭り上げる、見るに堪えない下品なテレビ番組を観て考えたのであった。

参考

消費社会に対しての批判や、思想の刷り込みについてはたくさんの参考文献があるので掲載しておく。

【ボードリヤール】そろそろ消費についてガチで考えよう!