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Site icon imageちちもブログ

日々の徒然

「響~小説家になる方法~」がなんかを突きつけてきた。

おすすめされて読んだ。なんだろう。自分だけのものにして薦めたくないっていう気持ちになっていて、それが、つまり、この作品を好きになっているということなんだろうけど、こんな作品好きになってたまるか、というあまのじゃくな気持ちも同時に湧いていて、整理が付かない。

Amazon.co.jp: 響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス) : 柳本 光晴: 本

とにかく、主人公の響が自分の中の、ある、正常な青い部分の化身のようで、見ていて吐き気がするんだけど、気になって仕方なくなっていた。

あらゆることに真剣に向き合うことをやめないとこうなる。

響には、基本的に、見栄、よく見せよう、相手にこうしてもらおう、こう思われたい、という打算的な意図がないまま生きている。それってどういうこと?というレベルで。

見栄、世間体、勇気、特別感、自己陶酔、才能で感じる自己有能感、人との比較、周りからの評価、そういったものが理解出来ないと言わんばかりの響に、「はいはい。一番かっこいいやつやりたいのね。乙。」「いや、なんとも思っていませんけど。」「嘘つけ!」「いや、嘘ってなにに対して言ってる?」というような感情の攻防をなんども繰り返した。この「人のダサい部分に一切触れてきていないので、それがどういう気持ちかわかりません」というのは、辛辣である。一度そういう気持ちを持ってしまって、それがどういうことかわかっている側の人間には、絶対に真似出来ない生き方をしてくる。そしてそれに憧れる。けど真似出来ない。そこが憎く感じる。忌々しい。がそう感じれば感じるほど、響のことを気にかけている。

そして、そういう響の生き方に近づこうとすることが既に打算的で、響の価値観から離れていく。近づこうとすればするほど離れていく。

ただ、唯一の救いは見いだせた気がしていて、それは、真剣に生きるということなのかなということ。多分、響は真剣なんだと思う。あらゆることに対して。あらゆる人の生き方に対して。みんな真剣に生きて、生を全うしようとしている前提なんだよな。

憧れ、じゃないな、そういう真剣に生きるということを試してみたくなった。そうなったら楽なんじゃないかな感はある。計算しなくていいし、それで関係が成り立たないならそれでいいという覚悟。そしてそれは死ぬわけでは無いので大したことではないという価値観。

ただ、真剣に生きるなら、とことん真剣に生きないと、一貫性がなくなって、気持ち悪いやつに成り下がって、伝わらなさそう。自分に一切嘘をつかない、その見返りとして相手にも同じことを、同じ態度を、同じ生き方を求める。こんな単純なことなのに、すごく大変な気がする。

物語を作り出す才能へのあこがれがある。

今の時代に、どういう才能、どういう人が、人を惹き付けるか、求められるか。それは人を感動させられて、人に夢を見させられて、人に物語を提供できる人なんだと思う。

響を通じて、この作家さんが、自分がそうだと、そう信じていると言わんばかりで、若干、読んでいる間に、作家さんの薄ら笑いが勝手に見え隠れして、ムカついたけど、この作品は間違いなく自分の心を動かしたし、素晴らしい作品だと思っている。人に、態度を、問う、というのは、稀有だと思っている。7巻を早く読みたい。


2024年1月再読

久しぶりに再読してみたら感想が違った。まあ厳密にいうと違わないんだけど、以前ほど素直に捉えられなくなっている。確かに面白さは変わらないんだけど、なんだろ。主人公響への苛立ちが増していた。たぶん、近くにエセ響みたいな天才少女ぶった女がいて、そいつを思い浮かべてしまったからだろう。本人は自覚がないのだろうが、無自覚に才能を盾に何をしても許されている環境を享受し、奇行が周りから普通じゃないって言われて実は悦に入ってそうなやつ。「え、わたしわかんない(ポカン)」みたいな女。社会性を持ち合わせていないことにアイデンティティとか周りから浮いてる特別感を見出していそうなところとか、周りからチヤホヤされる前提で生きてるところとかがムカツク。誰からも相手されなくなって孤独になれ。独自の世界観もってます(てかこれが普通だよね?)ってのを平然を装いながらアピりたいのが漏れ出てるのが見ていて痛々しい。周りに気付いてもらおうとする、気遣ってもらおうとする、その周りからの注目をひこうとする魂胆に、幼さに反吐が出た。良い小説書けるなら人の機微への理解はあるだろうに。(実際は違うのかな?)