「ラ・ラ・ランド」と「セッション」が同じ映画監督だというのは知っていたけれど、全く同じツボを突かれてノックダウンされた。
情熱を燃やす人たちの美しさと彼らが払う犠牲、すべては語らないストーリーと演出。このあたりが構造としてとても似ていた。
そして、それが大好きな自分としてはやはりまた気持ちよくなった。
以下のブログは酷評だけれども、共感した。
ポジ:デイミアン・チャゼル変わってなくて良い!
ネガ:デイミアン・チャゼル相変わらず大衆にポルノばらまいてるな。
かなと。
自分は、デイミアン・チャゼルのポルノを、下品なものとして退けるどころか、ありがたい激励として受け取れる観客なんだと思う。
「セッション」も「ラ・ラ・ランド」も、夢に情熱を燃やす人たちが出てきて、「おい、おまえ、日常に流されてそれでいいのか?人生、燃えなくてそれでいいのか?こいつらだって、必ずしもトントン拍子じゃないけど、もがいてるぞ。人として生きるって、こういう素晴らしいことなんじゃないのか?」という、激励。で、それにまんまと感化されてしまう自分。
それを自然に届けるための方法として、情熱を燃やす対象がある人たちのもがきと、成就する過程、その過程で失ったモノの大切さにいかにさりげなく(というかこちらが納得のいく形で)気付きいかに愛おしむか、が織り込まれているストーリー。「セッション」のときに感じたのは、狂気の向こう側にある高みを臨むことができる共感者を見つけたときの、生命活力感であり、今回もそれはところどころに演出されていた。
また、自然に、という部分で自分好みに仕上がっているなと感じたのも、すべてを語らず、観客に想像の余白を残しているからであろう。最高潮まではイカせてくれない。ギリギリのいいところまで持っていって、「あとはあなたのご想像におまかせします」という脳内で自分の都合の良いように解釈されるオリジナルカスタムストーリー。これに勝るものはないんだろうな。きっと。受け手の想像に任せてしまうのは、メッセージがブレる可能性があるので本来は怖いんだろうけど、その大枠の方向性を定めて、大きくブレなくするのがうまい監督で、その塩梅が才能だと思う。真っ白い大きなキャンバスの真ん中に赤いインクをチョンと垂らした絵を、美術館で大事そうに飾り、題名を「命」とかしたら、「人生を変わった」とか言い出す人が出てくるのと一緒の手法ではあるけれど笑
結局、映画はじめ、ゲーム、マンガ、小説、音楽(もその背景にある物語を観ていると思っている。)などのエンタメ=物語性があるものは、観ている人を気持ちよくさせるもの。以上。というポルノ的な面が大いにあると思う。「ラ・ラ・ランド」におけるポルノは上記に述べたとおりである。
物語におけるポルノは、中の世界への共感によって起こると考えている。
ヒトはコミュニティを形成する、共感する動物であり、共感することができると、それだけで役に立ったと認識(勘違い)したり、共感できたこと自体に幸福感(脳内麻薬の分泌)を感じることができるのであろう。共感した結果、登場人物の感情の起伏を疑似体験して、悲しくなったり、嬉しくなったり、楽しくなったりできる。その共感度が高いと没入感が高くなり、感情の振れ幅も物語が意図した(場合は、)乱高下と近くなる。
デイミアン・チャゼルの映画には、要素としてかなりの部分が、自分としては共感度が高い物語(=理想の自分)で構成されているので、現状に打ちひしがれながらも、活力をもらって、またファイティングポーズを取れるようになるんだと思った。