ずっと観たかったのを1週間遅れで観た。
豪華キャストだったり、李相日監督の役者を追い込む鬼畜さが話題になっているが、圧倒的に脳内にへばりついているのが、森山未來の演技だった。なぜあれほどに観る人を飲み込んだのか、飲み込む必要があったのか。それを考えながら書く。
森山未來というと、「モテキ」「世界の中心で、愛を叫ぶ」という青春ラブコメ役者という勝手なイメージがあったけど、見事に覆された。「大して知らない人を甘くみるなよ」と言われているようで恥じ入った。
今思えば、イスラエルだかどこかの中東でダンスの修行していたドキュメンタリーを観て、「なんだか迷ってるんだろうな」とか勝手に思っていたけど、本人はなんにも迷っていなかったんだろうし(それを想像するのはおこがましい行為なんだと今回学んだけど)余計なお世話だったな、と。
観ている側が、森山未來演じる田中に惹き込まれる、怖くなる、でも知りたくなる。それくらい鬼気迫っていた。
ではその鬼気迫る演技は何のために必要なのか。全ては「伝える」に集約されているのではないだろうか。
役者に限らず映画監督、もとい、アーティストや芸術家というものが「表現者」と称されるのは、彼らが社会的な問題意識を大衆が理解しやすい形で表現するからなんだろうなというのが、この「怒り」を観てなんとなくわかった。
日頃、単純に機会がなかったり、自分から深い情報を取得しにいくエネルギーがなかったりして、触れられないようなテーマについて触れる・考える機会を作っている=敷居を下げているのが彼ら「表現者」であり「社会問題の伝道師」とも言いかえられると思う。
必死になって自身が極限まで追い詰められて考えて分からなくなって、それでも表現するからこそ伝わってくるものがあって、なあなあで、こんなもんだろうな、でやっていたら、観ている側がナメてしまって真剣に取り合わないという、表現する側の恐れあるんだろうなと。
映画というのは1つの表現方法だと思うのだけど、ストーリーや人間感情というものを視覚聴覚を用いてそのまま表現するので、ダンスとか絵画とか小説に比べて、伝える側と受け取る側の情報のブレが少なくて、伝えたい事がストレートに伝わり易くて、余白を残しにくいという特徴もある。が故に聴衆各々に問題を持ち帰らせるには、事実描写と想像に委ねる部分とのバランスが大切で、それが絶妙だったのかもしれない。
信じることの心地よさ、それが失われたときの怖さは何ゆえなのか。それが人間生活の根底にあるからなのか。
どこまで生命や感情や苦痛をドライに捉えるべきか。それは他人のものだからそう割り切れるのか。
そしてこんな映画で自分の苦しみを表現されている当事者はどう思うのか。
いろいろあるけど、人間ってどうなったらいいんだろうね。根源的な問いを投げかけられた。
どうせ当事者にならないとわからないんだろうけど。