ちょっと前に、BSプレミアムで深夜にやっていた「ゲーム」をふとみた。面白い映画だよとはいわれていたけど機会がなくて見ていなかった。
何の気なしに見始めると、見ている人を手玉に取るような、展開の激しさと飲み込まれていく感じがたまらないなと思ってテレビにかじりついていた。あっという間にエンディング。大どんでん返しの連続であっけに取られていたら、最後のエンドロールに「デビッドフィンチャー」の名前が。
やられた。
デビッドフィンチャーはレンズの監督と言われているみたいで、レンズに精通している=自分の撮りたい画が思った通りに撮れる、という技術的な優位性もあるんだろうなと思った。撮影シーン毎にどのレンズで撮るかまで計画しているという。(それが普通なのか狂気的なのかは不明だけど。)
デビッドフィンチャーといえば最近だと「House of Cards」だけど、ここでも面白い話を発見。
面白いことができるのは、ドラマだからだと。
特に2010年代に入ってからのハリウッド映画界は、“中国やインドなど新興マーケットも見据えた超ビッグ・バジェットの娯楽大作”と“インディペンデント映画出身の若手監督や売り出し中の役者を抜擢してのスモール・バジェット作品”に二極化してしまった。
面白いこと=スポンサーや周りのしがらみを無視して表現したいことや過激なことを主張しようとすると、ユーザーからの課金を収益の柱として持っていたほうがやりやすい、ということかな。だんだんポルノ的な側面が出てきているような。
ポルノ=ある単一の欲求を満たす装置、と考えると、よりたくさんの欲求を同時にそして、受け手が飽きないように、提供するのが作品作り、という割と普通の答えにたどり着いた。まあ、靄(コンプライアンス)がかかったポルノよりは、無修正が楽しいというのが常。
また、上記記事を読む中で、町山さんの「これって「マクベス」なんですよ」という部分から、川上さんの「アリストテレス」も思い出した。
シェイクスピアのマクベスっていうお芝居があって。それはスコットランドの王様になるためにマクベスっていう男がですね、裏切って裏切っていくんですけども。それを奥さんが、『あんた、もっとこうやりなさい!もっとひどいことをしなさい!』っつって、煽っていく話なんですよ。
共通して「原点回帰」している。コンテンツに関しては、人の本性とかってあまり変わっていないだろうし、表現方法や演出があらかた出尽くしていることを物語っているのではないだろうか。表現方法の選択肢が少なかった昔の方が「なんで面白いって思うんだろう」とか「人って結局どういうものなんだろう」という本質について考える時間が長く、そういった本質的な部分についてはあらかた考えられてしまっているのかもしれない。
ところで、コンテンツ論を調べていく中で、はっとしたことがある。
どこかの記事で川上さんは「アリストテレスの仮説に当てはめると、現代のコンテンツは奇形」といったことを言っている。
自分は、ある方程式や方法論が与えられた時に、周りの事象を、その方程式や方法論に当てはめられないかっていつも考えていた。そして大抵の場合、事象の一部を見て、曲解して、無理矢理当てはめて、やっぱりそうなんだ、こういう法則に従ってるんだ、と自分を納得させていた。賢くなった気でいた。しかし違うものは違う。ならなぜ違うのか。法則に当てはまらないもの、違うものがあるということを認めて考えだすという姿勢がなかった。何でもかんでも、とある論に当てはめようとしてしまう、安心型の理解は、誰かのコピーにしかならない。
著名人や本の言うことは、すべて真であって、すべてはそこに当てはまるはずだという物事の考え方を恥じた。(非科学分野において)
なにも著名人や本の著者だって答えを100%信じて書いているわけではない。仮説であることも多い(書き方が悪い場合も多いが)。読んだ自分がどう理解するか、どう納得するかが重要だ。いつのまにか秀才型の優等生になってしまった気がして、論にすがってしまう自分を悔しく思った。