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Site icon imageちちもブログ

日々の徒然

人はなぜ物語を欲するのか。分かりあえない現代。

人はなぜコンテンツを欲するのだろうか。人はなぜ物語を欲するのだろうか。ゲーム、映画、本、漫画、はたまた人との雑談、色恋沙汰、ゴシップはなぜこれほど多くの人を魅了し続けるのだろうか。

なぜコンテンツを欲するか?に対して、書籍を参考に端的に述べると「世界を理解するため」となることに異論はない。

要するに生存本能である。世界を無傷で疑似体験することで、事前に様々なシチュエーションに対応できるような準備をしておくために、物語(コンテンツ)という教材を使っている。(ここで、事前に疑似体験で学習という点を踏まえると、疑似体験するまでもなく、現実が体験で溢れているような人や、世界に興味がない人は、物語を消費することがあまりないのではないだろうか。実際、映画やアニメといったコンテンツをあまり消費せず、人との関わりで時間を埋めている人もいると思う。)

物語を作る上で重要なのは、共感性を呼ぶかどうかである。人間は社会性の生き物であり、その想像力と共感性の高さによって、物語に感情移入し、学びを深くしていく。他者の行動を模倣する能力、他者の感情を想像する能力を活用し、鍛えていくことが、人間がその集団の中で有利に生き残っていくために必要となる。

とはいえ、物語(コンテンツ)すべてが学習目的かというとそうではなく、代行手段としての側面を備えていると考えると、ポルノと呼ばれる種類のコンテンツについても整理がつく。近年ではフードポルノという言葉もあるように、自分の代わりに食べ物を食べてくれたり、ゲームをプレイしてくれたりすることで、擬似的に追体験し、脳が快感を得るのである。これも人間の想像力がなせる技である。ショート動画に代表される学びよりも刺激を手っ取り早く手に入れる類のコンテンツはポルノ要素が多分に含まれているように思う。

現代はコンテンツの種類が細分化&先鋭化している。これは上記の「物語消費論改」にて触れられていることだが、経済の発展が一巡し、格差が広がる中で、経済、政治や国家といった共通の目標(共通の物語)が空中分解し、それぞれがそれぞれの最適化を図ることでしか、生きていくことができなくなっていることに起因していると思われる。そういった現象を露骨に表現してしまうと、なんだか突き放されたような気持ちになり、拒否反応を示してして状況把握を誤ってしまう人のために、「多様性」などといった言葉がもてはやされているのだと理解している。多様性というのは要するに、大きな物語側の責任放棄である。

そういった背景から、自分には理解不可能(≒ どう考えてもくだらない、消費するに値しない)なものが増えて来ていると思う。それによって、SNS上での諍いが絶えない。特に、欲求を直接刺激するようなポルノはその外側の人間から見ると、その欲求をストレートに刺激するものであるがゆえに、グロテスクな側面を備えていることが多い。

共通の物語を失った今、私達はどんどん分かりあえなくなっていることに自覚的でいることが重要になると思う。そのうえで、コンテンツによって社会性を醸成し、他者と共存することは、以前にも増して難易度が高い所業となっていると思うのである。